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名勝・史跡・施設紹介
詳細紹介(あ行)


アイナシ・イヌナシ (西阿倉川・東阿倉川/海蔵)

四日市の山城町などでとれる梨は、今でも名産物の一つではあるが、 あいなしとイヌナシ 昔から、変わった梨が、四日市に二つある。両方とも、国の天然記念物になっている「アイナシ」と「イヌナシ」だ。
普通のナシとは違い、ナシの実の大きさは、直径1センチほどにしかならない、小さなナシ。 写真を見てもらえば分かると思います。(このナシの実は、もちろん落ちていたのを拾いました)
イヌナシ イヌナシは明治35年、アイナシは明治36年に発見され、研究された後、 世界に発表され、珍しいナシの一種だとなったそうです。 どちらも、野生ナシで、最も原始的なナシだといわれています。
イヌナシは、きちんと説明の看板が立っていますが、 あいなし アイナシは、「あいなし広場」前に公園がありそこからも見ることができます。 あいなしが生えている場所はフェンスで囲まれている
イヌナシが一番原始的といわれ、アイナシは、イヌナシと今のナシの「あいだ」ということで 「アイナシ」と名づけられたようです。
どちらも中に入ることができ、史跡に指定された元の木は石で囲まれています。 それ以外の木は挿し木などで増えたもの。 それぞれの指定地に逆のナシもそれぞれ生えているので間違えないように見てみてくださいね。


アサケプラザ (下之宮町/大矢知)

アサケプラザの入り口 近鉄富田駅から、西へ歩いていけばその道沿いにあるいろんな物が詰まった総合会館。
図書館が充実している。市の施設だから、会員になるのも、借りるのももちろん無料。 市の資料もたくさんあり、いろいろな市内の個別の遺跡の発掘調査報告書みたいなのもたくさんある。 他にも、専門書や雑誌から児童書から紙芝居まで幅広い本が置いてある。
また、ホールもあり、いろいろな発表会や催し物が行われている。 他に、体育館(一般開放あり)や、会議室、血圧測定器もある。
建物は、おうど色で、特徴的な形をしている。


いくわ毘沙門天 (生桑町/三重)

毘沙門天の入り口 736年(奈良時代)に、この地に、聖武天皇の勅命で「永代寺」という寺を建てたのが始まりだと いわれています。 とても大きな寺で、生桑(いくわ)の山を中心にたくさんの寺があったといわれていますが、 毘沙門天の本堂 永福寺しか残らず、昭和33年、地元信者の手によって作られたのが「いくわの毘沙門天」と 親しまれている「千福寺」です。
本尊は毘沙門天(市の指定文化財)ですが、他にも山全体に、いろいろな像などが あります。遠く関東地方から、正月参拝でツアー団体もいるくらいです。
100円払うと、屋上に上がることができて、そこから見る 四日市の風景は絶景です。また桜の時期には、桜並木がとてもきれいです。


伊坂ダム・広古墳群 (伊坂町辺谷157-2/八郷)

市民の憩いの場となっている貯水池、伊坂ダムです。
伊坂ダム(奥の建物で自転車が借りれる) ここでは、その貯水池の周りに、サイクリングコースが出来ており、また、 自転車を借りる施設もあります。また、もう少し東にある「山村ダム」にもサイクリングコースが 整備されていて、伊坂ダムから行くことも可能です。
サイクリングコースのほか、モトクロスコースも作られ、マウンテンバイクを借りて走るのも可能です。 毎週金曜日は定休のようです。
右はダムの坂、左の山は浄ヶ坊古墳 その伊坂ダムの放水路(南)の鶴澤神社のある山は、浄ヶ坊古墳群と呼ばれ、二つの古墳がある。 伊坂ダムのサイクリングコースから、旧自転車倉庫のすぐ右に降りていく山道を下っていくと 左手にある。右には、古墳のような高さ1メートルくらいの高さの穴があるが、 そこは、だいたい、長さ10メートルぐらいの道がある(探検してみた・・・)のだが、 どうも、それは、古墳ではないらしい。
一方、伊坂ダムの南西にある広古墳群(大鐘町)は、A群とB群と呼ばれる二つの古墳群に分けられ、 A群には4つの古墳が、B群には3つの古墳が群をなしていることが確認されている。 A群とB群の間は200メーターくらいしかない。
ここでは、この地方では珍しく、方墳(四角い古墳)が主体となっている。 あまり発掘されてはいないが、ここでは、埴輪などが見つかっている。 なぜ、ここが、三重県の史跡になっているかというと、一時期、ここが、土砂採石所になる話になり そこで、三重県と四日市市が買い上げたということがあり、今、県の史跡となっている。


伊勢茶 (水沢地区など)

茶畑 三重県のお茶の生産量・面積は、静岡、鹿児島に続いて、日本で第3位です。 その三重のお茶の一つが、「伊勢茶」で、四日市・鈴鹿の山のほうで作られています。 四日市でいえば、水沢地区とよばれている地区で、多く作られていて、 その中でも、「かぶせ茶」という高級なお茶が多く作られています。
水沢でのお茶の歴史はとても古く、西暦900年前半といわれています。 そのころの、水沢の一乗寺(当時は浄林寺)の和尚さんが 空海(弘法大師)から唐(中国)からのお土産であるお茶をもらったことが始まりといわれている。 その原木が、「冠山の茶ノ木原」として、今でも残っている。
が、それも、数年で、高い税金がかけられたために作れなくなってしまいます。
1850年頃、水沢の常願寺の住職が、宇治(京都府)のお茶畑を見たところから、 そのお茶を水沢で再びはじめ、今にいたっている。
水沢は、土地がやせていて、山間部なので、水や、温度の面で苦労したが、 暖かい空気を数メートル上から降ろすという扇風機のような物により、 霜が降りないようになった。
伊勢茶というとブランド名があまり浸透していないが、宇治茶などの一部に伊勢茶が入っていたり、 世に出ている「カテキン抽出」は伊勢茶から作ったのがとても多いといわれている。

●関係事物へのリンク
冠山の茶ノ木原


伊勢湾

四日市の沿岸部分は、海。海といっても、伊勢湾と呼ばれる内海です。
伊勢湾は、三重と愛知に挟まれた部分で、名古屋港も、伊勢湾になります。 また四日市の対岸の、愛知県常滑市(知多半島)に中部国際空港が2005年にオープン。 そして、名古屋港あたりには、トリトンという名称の日本道路公団が作った3つの巨大橋 (後に、第二東名・新名神の境目となる)があります。 東名阪自動車道・四日市JCTから東名高速・豊田JCTがつながっています(伊勢湾岸道)。
ほか、三重の志摩半島から、愛知の伊良湖の渥美半島への伊勢湾口道路という橋が できるかもしれないです。っていうかそんな夢のような話をしているところもあります。 いや、きっと無理です。2010年にはその航路までも廃止されるので。


伊勢湾台風

全国的に有名で一番甚大な被害をもたらした台風、「伊勢湾台風(昭和34年9月26日)」は、 四日市でもたくさんの被害が出ました。
映画の伊勢湾台風物語というのは全国的に放映されたそうですが、 あの物語は、名古屋市天白区のお話です。 でも、もっと悲惨な被害に遭っていたのは四日市で、その中でも北部はひどかったです。
慰霊碑(富田一色町) 北部の富洲原・富田地区の沿岸部では、水は1階すべてに浸水し、 濁流がたくさんの家をさらっていきました。 海岸線に沿って松が生えていて、それより向こうに工場があったところでは、その工場が 松の木に引っかかり、堤防の役目を果たしてくれたという所も一部合ったそうですが、 市内で115人の死者(うち富洲原地区60人)、全壊・流失の家屋が1209戸、 被害額は港湾関係だけで14億円以上にも上ったという。 風速53メートルを記録、5メートルの高波、停電、浸水・・・と 本当に恐い夜だったそうです。
水位を示す跡(松原町)。今はありません いまでも、被害の一番多かった富洲原地区の富田一色町には、浜の公園に海を向いた慰霊碑が、 海運橋横の公園には台風時の潮位を示す碑と治水事業の碑、 四日市北消防署には台風時の水位をあらわす表示があります。
この台風を機に、海岸線には堤防が築かれ、国道23号線(名四国道)が、堤防道路として 作られることになったのでした。


和泉式部の化粧の水

神前地区の曽井町(新477号のちょっと北)のバス停の近くになにやらブロックに囲まれた井戸のような 水が湧き出ているようなところがある。これが、「泉式部の化粧の水」といわれるもので、 木の看板がしてあるが、和泉式部というと1000年ごろ、紫式部や 清少納言と同時期の人。 和歌を交えた恋愛物語の和泉式部日記もあり、新古今和歌集などにも入っており、百人一首にも 「あらざらんこの世のほかの思い出にいまひとたびのあうこともがな」 (今度の来世への思い出に、あなたにもう一回、会いたい!)と書いている。
この和泉式部、とても綺麗な人だったが、顔に一箇所、あざがどうしてもあった。 で、四日市のこの場所の神社で出る湧き水で顔を洗うと、消える、という話を 聞き、四日市に通いづめたところ、なんと、そのあざが消えたという。 その場所が、和泉式部の化粧の水として残され、石碑も立っています。
今は横が、ごみ集積場…。


いなば2(遊覧船) (千歳町/中部)

四日市港に停泊するいなば2 四日市市が誇る、二階建ての遊覧船です。
霞ケ浦や四日市付近などをまわったりしますし、貸し切りにしてどこかに行くことも出来ます。 四日市花火大会のときには、海から見る花火の企画もこの船であります。
オーストラリア館をバックに パーティータイプや会議タイプのいすと机や、休憩室的な並びの場所もあります。
3月から11月には、日・祝日や曜日によって、1〜3便、55分の港内一周遊覧が出来ます。 大人は1000円、子供は500円です。(個人なら申し込み不要) また、中部国際空港を見る遊覧や花火を楽しむことなどもされています。
98年4月に、ロシアのエルチン大統領が訪日した際、 橋本首相(当時)とともに釣りを楽しんだ船が、この船でした。(日本全国の中から選ばれた)
名前の「いなば」とは、四日市港を私財を投資して作った、稲葉三右衛門からとっている。
2005年には休日に対岸のセントレア(中部国際空港)に行くツアーが大人気となった。
しかし、残念ながら、売却されたようです。


伊勢安国寺跡 (西日野町/四郷)

伊勢安国寺跡 西日野の大念仏の祭りで知られる顕正寺は、昔は大きな寺であった。
800年頃から寺があったといわれていますが、 14世紀、後醍醐天皇の勅命で、この地に安国寺が作られることになった。 その後、栄えるが、織田信長の軍勢に攻められ、安国寺は落ちてしまします。 そのうち、再興されたのが安国寺のうち、顕正寺だけだったということです。


午起 (午起/橋北)

ここには、第2コンビナートと呼ばれる石油化学コンビナート群がある。 石油精製工場や中部電力の工場などがあります。
霞ケ浦の第三コンビナート 今は、その様なものが立ち並んでいる午起地区ですが、 「午起(うまおこし)」という名前自体、昔話があり、そこからついた名前です。 昔、馬をとても可愛がっている人がいて、その人が、ここの海岸で寝ていたら、 高波が来て、それを見た馬が、その人を起こして、乗せて、走り去って生き延びたという 伝説があったそうで、「午起」だそうです。
そして、この午起海岸では大正8年10月9日に、四日市の玉井藤一郎が「青鳥号」という飛行機で飛んでいます。 (大正5年8月5日にも、午起で飛行しようとしたが、離陸せず、失敗している)
玉井藤一郎は、兄の清太郎(大正6年5月、東京芝浦で墜落死)とともに、日本のライト兄弟といわれている。 四日市の玉井兄弟は、飛行家になろうといろいろ調べ、 浜田小学校で明治43年に、実物大の模型を組み立てたこともあった。 そして、東京の方での出資者の招きで羽田空港の前身となる「日本飛行学校」を建てた(大正6年1月)。 大正5年には、玉井式二号機の飛行機が、東京で初めて飛んでいます(純国産としては日本初)。
その兄の清太郎が死ぬ前日、四日市では、アメリカの飛行家が飛行大会で飛んでいます。
また、午起は、コンビナートが建てられるまでは、海水浴場としてにぎわっており、 天ヵ須賀にあった須賀浦海水浴場とともに、名古屋などからたくさんの海水浴客が来ていた。

●関係事物へのリンク
コンビナート


御池沼沢植物群落 (西坂部町/三重)

ここは、国の天然記念物に指定されており、珍しい植物が自生しているところです。
御池沼沢植物群落 暖地性のミクリガヤという植物の北限地、そして寒地性のヤチヤナギの南限地であり それが共存しているとても珍しい植物群落といえる。 そして、シラタマホシクサなど東海地方特有の植物や、 ミミカキグサなどの食虫植物や、モウセンゴケなどの小さい植物も生えている。 ノハナショウブの群生が見つかったことからこの群落が注目されることとなった。
いま、東部指定地と西部指定地に分かれており、昔は一つの大きな池だったが、 ほ場整備により真ん中の部分から水を出して水田を作ってしまったため、 現在どんどん水が減ってしまって湿地が陸化している。 また近くに東名阪自動車道ができたことから、地下水の水脈がたたれ、 現在ではポンプで地下水をくみ出して潤しているのが現状。 それは東も西もで、市が管理しタイマーでポンプをくみ出している。
東部指定地には池もまだ残っており、自由に中に入ることができる。



わが街四日市