グラウンド、プールなど、運動施設は充実しているのですが、
広場的なもので、がらんとしています。周回ジョギングコースもあります。
体育館は、いろんなスポーツのための一般公開を行っています。
だから、いろんな運動行事は行いやすいのです。
1号線の真ん前でもありますし・・・。
四日市シティロードレースは、ここを発着点としています。
昔は、ここに郷土資料館がありました。(今は、四日市駅裏の博物館に吸収され、資料庫として非公開)
300年以上前、旧朝明郡の領主(寺領)の舟木良見が、
元三大師(慈恵大師)と会ってから、いろいろと両方が尽くし、
良見が、大師にささげるために建立したのが、この寺。
建立したのは、延長6年だそうです。
しかし、織田信長の時代、信長の家臣(滝川一益)によって寺や仏像のほとんどと、
僧侶のすべてを損失しました。
しかし、その後、桑名藩の藩主、松平定重の手伝いもあり、復興しました。
んが、明治維新により、それから約30年間、放置された状態になりました。
大正2年に、この観音寺にある、「元三大師尊像」が国宝に指定されて、
それから、昭和にかけて、修復が行われていったようです。
この大師像は国宝ですが、
それ以外にも、薬師如来像、釈迦誕生仏像、地蔵菩薩像、涅槃画像なども、
県の重要文化財に指定されており、とてもすばらしいのですが、
収蔵庫にしまってあり、普段は見られません。
ただ、お寺の方に言っていただければ見せていただけるそうです。
この寺は、現存しないが、四日市における、最古の寺院遺跡だと言われている。
現在は、東名阪高速の真下に碑が出来ている。
昭和28年に、道が整備されるときに、博仏(瓦で焼かれた仏像)や瓦がたくさんみつかって、
奈良時代前半のものだとわかった。
また、その後、東名阪自動車同建設前の発掘調査によると、
溝跡や参道の跡であろう砂を敷き詰めた3mの道、金堂(15×13m)跡、講堂(22×16m)跡、
また、他にも建造物の跡らしき柱の跡があった。
見つかった瓦は、奈良県の飛鳥寺と共通しているという。ほかに土器や鉄製品も見つかっている。
智積(ちしゃく)町には、今も、綺麗に整備された用水が寺の前とかを通っているが、
これは、菰野町の湧水池からひいた灌漑用水である。
全長は1784mにも及ぶ。水不足解消のためという。
環境庁の「名水百選」にも選ばれた。
そんな綺麗な水が流れる智積町ならではの酒蔵がたくさん並んでいる。
あまり市民には知られていないが、三重県一の生産量らしい。
湯の山街道などを走っていると、大きなお酒の看板がたくさん並んでいるのが
気づく人も多いとおもう。
四日市には4つの鉄道会社の鉄道が走っている。
もちろん、JR。そして、最大の私鉄、近鉄(近畿日本鉄道)。
そして、三岐鉄道と伊勢鉄道。
JRは関西本線と呼ばれ、名古屋から四日市を通り、亀山を抜け滋賀・京都方面へ抜ける。
近鉄は名古屋線といわれ、名古屋から四日市を通り、津・松阪方面へ伸びる。
もひとつの、三岐鉄道。これは、四日市市富田の近鉄富田駅から、三重県藤原町の西藤原駅まで
伸びている。「三岐」のなのとおり、本当なら、三重と岐阜(関ヶ原)を結ぶつもりだったが、
トンネルを掘るお金がなかったらしい。
また、あの黄色の電車、見たら強烈だろうけど、あれは、昭和30年代の埼玉鉄道(?)から
ただでもらったというもっぱらの噂である。
また、鉄道ファンにはたまらない(のか?)、いまだに厚紙の切符である。
しかし、日本一区間料金の高い鉄道としても良く聞く。
暁学園など、途中にあり、利用者も多いはずだが、赤字らしい。(以上、三岐鉄道)
近鉄とJRでは、やはり、断然近鉄の方が利用者が多い。
というのは、近鉄四日市駅から、いくつかの線が出ているからとも言える。
(四日市駅は、近鉄とJRで、位置が違う)
近鉄湯の山線、近鉄八王子線、近鉄内部(うつべ)線である。
それぞれ、湯の山温泉駅、西日野駅、内部駅までのびる線だが、
たくさんの高校がこの沿線にある。
近鉄八王子線は、西日野駅が終点と書いたが、じつは、八王子駅というところまであった。
が、昭和30年代の大きな水害によって、西日野駅から八王子駅までが
被害をうけ、復旧しないことにし(赤字だったし)、いまの、西日野駅までになっている。
だから、八王子線を西日野線と言う人も多い。
内部線・八王子線は、途中、日永駅までは同じ場所を走り、そこで別れる。
別れるといっても、八王子線は、日永駅の次が西日野駅の1駅となります。
両方とも、とても電車の幅が狭いです。ワンマンです。
近鉄には珍しい、とてもいなかっぽい電車といわれ、線路の幅が日本一狭いといわれています。
また四日市と津を結ぶのが伊勢鉄道。JR四日市駅から河原田を通り、津に最短でむすびます。
JRの快速みえやワイビュー南紀などはこの路線を使います。ここは電化されていないため、
上記の電車はディーゼル車なのです。
●関係事物へのリンク
→詳細紹介外ページ・四日市を通る鉄道
日本の交通の要、東海道。
「東海道53次」と呼ばれるが、そのうちの四日市は、東京から数えて43番目の宿場町であった。
四日市中心部では、最初は、常磐地区付近を東海道は通っていたが、
室町時代に、浜田城(鵜の森公園)を作ったとき、今の、一番街の中を通る東海道に変更された。
一里塚や道標・松並木は、江戸時代に、徳川家康が、分かりやすいようにと東海道全体に設けたもので、
一里とは4km弱。富田・三ツ谷(海蔵川)・日永・采女の4箇所にあったと言われているが、
今残っているのは、富田・日永だけである。(写真)
(最近、三ツ谷にも一里塚の石碑を建てました)
常夜灯も、いくつかのこっている。復元したのであろうが、夜になると、電気がついている。
東海道だけではなく、四日市市追分で別れる伊勢街道沿いにも現存している。
大名の参勤交代が、江戸時代から始まったために、四日市も、たくさんの大名が通るため、
繁栄を続けた。
たくさんの馬が四日市に導入された。「伝馬の制」といわれるもので、大名は無料、一般の人は有料だった。
だいたい、100頭の馬が、市内にいて、十建町や南町で飼育されていたらしい。
もしも、大行列で、馬が足りないときは、付近の村が提供していたという。
そして、松並木は、富田・霞ヶ浦・日永などにのこっている。
東海道で、四日市から東京側に行くと、次の宿場町は桑名で、
桑名からは、名古屋の熱田(宮)まで、七里の渡しといってそこまで、船の道になっていた。
木曽三川を越すことが出来ないからである。
だが、実は江戸時代に、四日市からも桑名を通らず、熱田へ行く「十里の渡し」というのが存在していたらしい。
とにかく、東海道の宿場町ということから、四日市は発展したといえる。
●関係事物へのリンク
→日永の追分
→八風(はっぷう)街道
→ヤマトタケルノミコト・杖衝坂