四日市には、たくさんの桜の名所がある。
まずは、十四川沿い。近鉄富田駅・四日市高校の横。
ここでは、桜の時期になると、ゴザを敷いて、宴会する人たちでいっぱいになります。
そして、たくさんの出店も並びますから、とてもにぎわいます。
十四川(幅2メートルくらい)にそった両側に1.2`の間に750本の桜が埋まっています。
また、近鉄川原町駅と阿倉川駅の間にある海蔵川の左岸堤防沿いも、
宴会の人たちでにぎわいますが、292本の桜があるそうです。
ほか、四日市市街地の鵜森公園でも300本の桜があり、甘酒の振る舞いサービスがあったり、
三重団地や、河原田神社でも、たくさんの桜が咲きます。
ぜひ、見に行ってみましょう。
湯ノ山街道(柳通り)を港方面に23号線を突っ切っていくとある稲葉町の先の
四日市旧港(碑がたっている稲葉翁公園)から、もっと東(知多方面)を見ると
そこにその防波堤は並んで残っていますが、その向こうに大協町1丁目のコンビ
ナートがあるため現在では、防波堤の役割は果たしていません。
その稲葉翁公園にはその潮吹き防波堤のミニチュアがあり、波を起こして実際に
どうなるかを実験することもできます。
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→四日市港
四日市市北町にある建福寺の境内の中に残っているらしい。(一般の時は見られない)
泗水の井戸とは、名前の通り、4つ井戸があったのです。
江戸時代に発達した四日市、その中の四日市陣屋を中心に、4つ井戸があったといわれているが、
残念ながらこの建福寺しか場所が特定されていない。
建福寺は曹洞宗の寺で、仏涅槃図が、市指定の文化財として保管されているらしい。
また、四日市のことを「泗水」と呼ぶ歌人もいるらしいが、これが発祥である。
●関係事物へのリンク
→四日市の水・水道
この神社は、ある天皇が、伊勢神宮をお参りに来た帰りにここで、
一句、歌を読んだという場所です。
万葉集の中に、この「志氏」の元になる言葉が含まれています。
神社の境内には、二人の平安時代くらいの貴族か武士の大きな座った人形があります。
また、神社境内には北勢最大と言われる4世紀代の前方後円墳がある。
また、前方後円墳としては、四日市では唯一である。
しかし、四角い部分は、志氏神社の整備により削られて、今は存在しない。
が、鏡や、勾玉などの玉や、車輪石などが出土している。
この前方後円墳の周りにも、いくつかの陪塚があったといわれている。
正式な漢字は、「氏」の下に「_」がつきます。「志氏神社」。
この市役所は、1972年、ここに建てられました。
その左に出来た総合会館は、まだ出来て10年も立っていない新しい建物で、
身障者の方でも入りやすいよう、段差がなかったり、入り口はアナウンスが流れていたり
しています。
市役所は、地上11階、地下1階の建物で、議会場を含み、いろいろな
課の窓口などがあります。
総合会館は、会議室や、視聴覚室などのホールのような大きな部屋もたくさんあり、
いろんなイベントでも使われています。
近鉄四日市駅と、JR四日市駅のちょうど真ん中にあります。
四日市市の小学校5年生、中学校2年生は、ほとんどがここに「自然教室」という泊り込みの
行事を行います。
ここは、宿泊施設で、体育館やいろいろな設備が整っています。
また、キャンプ場もあるため、テントで寝泊まりも出来ますし、
飯盒など、野外炊事も出来ます。食堂もありますけどね。
泊まれば、野外炊事道具が無料で借りれるので、
マッチ一本で火をおこすことに挑戦でもして、飯盒や鍋や、カレーなどを作りましょう。
このあたりは、とても自然が残っていて、いろんな動植物が生息しています。
毒を持った動植物もいますけどね・・・。
夜光虫なんかもいますし、イタチはたくさんいますし、タヌキ、鹿などが時々現れます。
また、展望台まで上がっていくことが出来、そこからは四日市全域や木曽三川、名古屋、
知多半島などが見渡せます。星もとてもきれいで、天の川も見られます。
四日市市松原町にある四日市北郵便局裏の「聖武天皇社」は、
聖武天皇の「朝明郡衙」の跡かともいわれている(大矢知の久留部遺跡の部分とも言われている)。
これは、はやくいえば、天皇が泊まった所ということで、
この聖武天皇社のある場所に、聖武天皇が2泊したといわれている。
天武天皇以来、愛知・三重を確保しに来ていなかったので、
反乱を押さえに来たという感じである。(普通は天皇は京都から出ないといわれている)
万葉集の中で、聖武天皇は「妹に恋ひ吾の松原見渡せば 潮干の潟に鶴鳴き渡る」と読んであり、
その注意で、「吾の松原は三重郡にあり、」とあるので、
たぶん、この朝明郡衙に泊まった時の話であろうと推測される。
また、境内には、四日市が生み出した歌人、佐々木信綱の書による碑が立っている。
市の指定史跡。
2005年には、初めてこの場所に伊勢神宮の遷宮の御柱が立ち寄った。
あの有名な奈良時代の壬申の乱のことである。
この壬申の乱には、四日市を含む北勢地方が、深く結びついている。
それもそのはず、北勢地方を通っていったのだ。
壬申の乱は、天智天皇(大化の改新の中大兄皇子)が、死んだ後の、天皇即位争いである。
大海人皇子と大友皇子が戦った争いだが、その後に天武天皇になる大海人皇子が、北勢を通ったのである。
吉野にいた大海人皇子は、伊賀を通って、三重郡家(西坂部もしくは采女あたり?)に入ったと
き、雨に濡れて寒がっていた大海人皇子を暖めるために、そこの民家を一つ燃やして暖をとった
という。(おおこわ)
また、その後、朝明郡迹太川(とほがわ)のほとりで、伊勢神宮に向かって、
戦勝祈願をしたという。それが、たぶん、今の、糠塚山と呼ばれる山の頂上(この写真、緑の矢印など)だろうと
いわれている。迹太川は、現在の、米洗川ではないかと言われている。
その時に、「ゆく鳥の 争ふはしに 度会の 斎宮ゆ 神風に 伊吹きまどわし」と
歌ったといわれている(万葉集に収録されている)。
いちおう、この糠塚山の頂上には、その石碑があるが、もう、今となっては登れないような
ひどい道になってしまっており(途中で道が切れています・・・)、
かわりに、山のふもとの富田山城線を挟んだ向こう側に、御遷拝所跡の碑や松が残っている。
その後、大海人皇子は、朝明郡家(三重郡朝日町?)に泊まり、
桑名郡家に泊まるが、岐阜・滋賀県境の、不破に、兵が集まったためにそこへ行き、攻撃を開始するのであった。
北勢学術都市としていろんな施設が四日市のスポーツランドと隣接する鈴鹿山脈のふもとにできています。
全体をリサーチパークと呼び、その中には、国際環境技術移転研究センター(ICETT)と、
三重県環境学習情報センター、鈴鹿山麓研究学園都市センターなどがあります。
三重県環境学習情報センターでは展示なども充実しており、毎年大きなイベントも夏に行われております。
今も新しいいろんな施設が建ち並んでおり、公共的な施設だけではなく、民間の研究施設も続々
できており、バイオなどの分野でも期待できそうである。
このリサーチパークでは、春に「さくらとお茶マラソン」、夏に「Mieこどもエコフェア」、秋に「サイクルスポーツフェスタ」などが
おこなわれています。
北勢ソフトウェアセンターは解散しました。
・工事中の写真
この一つ上の「リサーチパーク」のすぐふもとにある子供用の大掛かりな遊び場。
子供会や学校の遠足などでも行った人も多いのではないでしょうか。
いろいろなぜか有料ではあるが、大規模なアスレチックで遊べたり、
一回滑るのに数百円という台車に乗って延々と滑る(150m)滑り台もある。
電車や恐竜の張りぼてもおいてあったり、
ローラースケート場や、ちびっこプールのほか、キャンプをする場所もあり、
バーベキュー用品など、そこで買って出来るようになっている。
10kmのサイクリングコースも、展望台もある。
金曜日や年末年始などは定休日。9〜16時営業。
が、一番近いバス停(宮妻峡行きの「青木」バス停)から徒歩40分とのことなので、車で行き
ましょう・・・。
土日や夏休みには親子連れでにぎわっており、近くにふれあい牧場ができたことで、そこからサ
イクリングで向かう人などもいる。
●関係事物へのリンク
→ふれあい牧場
95年、日本中を恐怖に陥れた毒クモ「セアカゴケグモ」。
最初に、大阪でたくさん見つかって、とても騒ぎになったが、
調べてみたら、四日市にもたくさんいたのであった。
大阪と四日市にたくさんいる、と当時はそうとう騒がれたが、今はどんどん減っているが
まだ霞ヶ浦には生きている。
この毒クモ、本当は、オーストラリアにしかいないクモで、なんで日本に、それも
大阪と四日市にしかいないのか、疑問になったが、それもそのはず、
オーストラリアとの貿易は、当時、四日市が第1位、大阪が第2位といわれており、
羊毛など、オーストラリアのものを、船で輸入する間に、
毒クモまで輸入していたというのである。
見つかった霞ケ浦付近では、どぶをすみからすみまで掃除し、
クモがいないか確認したり、看板に注意の張り紙がしてあったりなっていた。
でも、毒性は、低かったようです。