時代 | 事件・状況 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
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古生代 | 海の底が、褶曲し始め、海面上に姿をあらわす | それまで海の底だったため、原生動物の化石がこの時期に溜まり、石灰岩が出来た
白亜紀 | 地下のマグマが花崗岩を作る
| 今でも、御在所(湯の山)などでは、花崗岩が露出しているのが見れる
| 新第三紀 | 古瀬戸内海が出来る
| 鈴鹿山脈を東西につきぬける形で、大きな内海が出来ていた
| 新第三紀末 | 東海湖が出来る
| 海が退き巨大な湖となった。その後、一志断層・四日市断層などができ、現在の地形となる
| 石器で人が狩りをする
| 四日市市小山町と東日野町の遺跡で、狩りをするための石器や、平津では象の化石が見つかっている
| 縄文時代 | 竪穴式住居で暮らし土器を作る
| 四日市市堂ヶ山町や伊坂町、西村町などで土器と、縄文の石器が見つかっている
| 弥生時代 | 水田作り・栽培をはじめる
| 四日市市生桑の大谷遺跡などで弥生の集落跡や伊坂町で銅鐸などが見つかっている
| 古墳時代 | 古墳が作られる
| 四日市市内には、200基にも及ぶ古墳があるといわれている | →志氏神社境内古墳・伊坂ダム広古墳群 →ヤマトタケルノミコト 飛鳥時代 | 壬申の乱
| 後の天武天皇が壬申の乱のときに四日市を通る跡が残っている | →壬申の乱 →智積廃寺 奈良時代 | 国分寺・東大寺・唐招提寺などが出来る
| 鈴鹿市の四日市のすぐ近くに国分寺の跡がある。
また、この時代に作られたという本にはたくさんの四日市の中のものが書かれている | →古事記・日本書紀(日本武尊) →万葉集・聖武天皇 平安時代 | 平氏が栄える
| 四日市には、平氏がたくさんいて、鎌倉時代になってからも四日市の平氏の残党が源氏を揺さぶった | →冠山の茶ノ木原 →経塚公園 →大膳寺跡 鎌倉時代 | たくさんのお城が各地に建てられる〜室町
| 四日市市内には室町時代まで含めて約30個のお城が存在していたといわれている | →伊勢安国寺跡 →四日市の城 室町時代 | 南北朝の戦乱、戦国時代へ
| このあたりでも、足利軍が来るが、南北朝時代は、最後まで足利側は負けていた。
また、後半になると、織田信長の兵により、城は落城、寺は焼かれた | →四日市の城 安土桃山時代 | 豊臣VS徳川が関ケ原で決戦
| 四日市の各地は、いろいろなところの領地となった。しかし、四日市市街地だけは天領だった。
また、関ヶ原の戦いの前に、北勢で戦いがあった | →思案橋(徳川家康) 江戸時代 | 東海道が整備される
| 四日市は、東海道53次のうち43番目の宿として栄え、宿の数は100軒にものぼっていたという | →東海道(灯ろう・一里塚)・追分 →稲葉三右衛門の四日市港 →秤の館 →泗水の井戸 →和無田のマンボ →智積の酒蔵 明治時代 | 廃藩置県が行われる
| 四日市(当時三重郡)に県庁がきて、三重県が始まる。その後、県の中心にというので、
現在の津市に県庁を移す。
その直後、地租改正によって起こった暴動により、四日市は荒れ果てる | →アイナシ・イヌナシ →ばんこ焼き・東洋紡績 大正時代 |
| 紡績業が発達した四日市で、輸入綿によるペストが大流行した | →飛行機(午起) →綿花によるペスト 昭和時代 | 太平洋戦争
| 海軍の基地があった四日市では、空襲でひどい被害を受けた。
原爆投下の5つくらいの候補地に入っていたほどであった。
戦後は、その海軍の基地が、コンビナートとして発展していくが、
公害が発生し、四日市の名をそれで広めることとなってしまった | →コンビナート →伊勢湾台風 →オーストラリア記念館(大阪万博) →三岐鉄道・四日市倉庫・ジャスコ →四日市高校甲子園優勝 平成時代 | 不景気・異常気象
| 平成9年に四日市は市制施行100周年となりいろいろなイベントや施設のオープンがあった | →記録的大雪 →セアカゴケグモ(毒グモ) →市立博物館・四日市ドーム |